こんにちは。由来系ライターのSAITOです。
今回のテーマは「日本のタイヤ市場の半分を占める」と呼ばれる「ブリヂストン」の由来です。
ブリヂストンの由来:創業者の名字「石橋」から
ブリヂストンの社名は、海外進出を見据えて創業者の名字「石橋」を英訳した”stone-bridge”(ストーンブリッジ)を、順番を入れ替えて語呂の良い“bridge-stone”(ブリッジストーン)にしたことに由来します。
ブリッジストーンは、石で作った橋を安定させるための石材「要石(かなめいし)」の意味合いもあるとされ、縁起が良いとされました。
始まりは足袋屋さん?ブリヂストンの歴史
ブリヂストンの歴史を辿りましょう。
ルーツは仕立物屋「しまや(志まや)」
ブリヂストンのルーツは、石原徳次郎が1892年(明治25年)に福岡県久留米市で創業した仕立物屋「しまや(志まや)」です。
仕立物とは、「縫い物屋」のことです。
1895年(明治28年)に京都市で開かれた「内国勧業博覧会」では、ライバルであった「つちやたび店(現・ムーンスター)」と並んで褒賞を受けました。
縫い物のうち、ゴム製の足袋を専門にした
石橋徳次郎は、次男・正二郎の高校卒業を機に、兄・重太郎(後・二代目石橋徳次郎)ともに「しまや」を継がせます。
「しまや」を継いだ石橋兄弟は、1907年(明治40年)には仕立物業のうち、足袋事業を強化します。ミシンや裁断機を利用して機械化するなど様々な工夫を行いながら、事業の拡大を図りました。
こうして1918年(大正7年) に「日本足袋(株)」を設立しました。しかし、第1次世界大戦(1914~1918年)後に日本が不況を迎えると、足袋の売れ行きが悪化し、日本足袋も不況の影響を受けます。
これを打破するために、1921年(大正10年)に石原兄弟は「働く人々の履物をわらじより良い物に」と「地下足袋(じかたび)」の開発に着手します。
地下足袋とは、底がゴムで親指と残りの指が入る部分が二股に分かれている作業労働用の足袋のことです。
地下足袋が登場する以前にも、すでにゴム底を縫い付けた足袋はありましたが、縫い付けた糸がすぐに切れてしまうので、消耗が早いものばかりでした。
そこで石原徳次郎は、テニス用のゴム靴を参考にして、ゴムのりで接着した「地下足袋」を完成させ、1923年(大正12年)に「アサヒ地下足袋」として発売されます。
タイヤ部門が「ブリヂストン」になった
日本足袋にはゴムを加工する技術を応用したタイヤ部門がありました。
石原正二郎は周囲の反対を踏み切り、1931年(昭和6年)にタイヤ部門を「ブリッヂストンタイヤ株式会社」として独立させます。自動車産業の発展を予測していたためです。
結果、正二郎の予想は的中し、自動車産業は発展し、その発展とともにブリヂストンはタイヤ製造大手へと成長します。
社名が現在の「ブリヂストン」になったのは1951年(昭和26年)のこと。
日本足袋の方は後に「アサヒシューズ株式会社」となりました。
社名英訳の裏に「国のため」?
先ほど、創業者の名字を英語表記した理由は「海外展開を見据えたため」としましたね。ブリヂストンが海外に目を向ける必要があったのは、国(日本)のためでした。
国が海外のお金(外貨)を持っていれば、他の国に支払えるお金があるとして信用されやすく、外貨が必要になる「貿易」もスムーズに進みます。
そこで国は十分な外貨を貯めておき、いざとなったら支払いできる準備をしなければいけません。
しかし、戦前の日本は外貨の準備が十分とは言えませんでした。ゆえに、日本の企業が海外で外貨を稼ぎ、持ち帰ってきてくれることが国のためになったのです。
ブリヂストンが海外を意識した背景にはこのような事情がありました。
実際に設立の翌年から、タイヤ製品の輸出を開始し、タイヤの海外生産も行っていました。
現在は国内工場のほか、アメリカ、タイ、インドを中心に、世界25か国でタイヤを生産する「タイヤの世界3強のうちの一社」とされます。