ふと「岐阜」って何だろうと思うことはありますよね。
なぜなら、「岐」にしても「阜」にしても意味を全く予想できないためです。
これは岐阜が「中国」の地名に由来していることに起因しています。
そこで気になるのが、中国の何に由来しているのか、誰が命名したのか、どんな歴史をたどって岐阜県になったのかという点です。
それを紐解いていくのが今回の記事となります。
- 岐阜の由来は、「岐山」「曲阜」など中国地名にあり
- 「岐阜」の命名者について、信長が選出・命名した説が有力
- 旧岐阜奉行に設置された「岐阜県庁」、ゆえに「岐阜県」
それでは、詳しく解説していきます。
岐阜の由来:「岐山」など中国の地名から
「岐阜」の名称の由来には以下のように諸説があります。
- 中国で縁起の良い「岐山(きざん)・岐陽(きよう)・曲阜(きょくふ)」の3名称の候補から、折衷案(せっちゅうあん)で「岐阜」が誕生した説
- 岐山の「岐」と思想家・孔子(こうし)の生誕地・曲阜の「阜」を取って「岐阜」とした説
- 「岐阜」に加えて、岐山・岐陽を合わせた3名称の候補から、「岐阜」が選出された説
- この地が「岐阜陽」と呼ばれていたことに由来する説
「岐阜」と命名した人物については後程紹介します。
岐山?曲阜?孔子?岐阜陽?はてなんのことだか・・・となるでしょう。この辺の用語もしっかり押さえておく必要がありますね。
「岐山(きざん)・岐陽(きよう)・曲阜(きょくふ)」とは
まずは「岐山」(きざん)から。
「岐山」は実在する山で、中国の陝西(せんさい)省・鳳翔(ほうしょう)県北東に位置します。
伝説上では、岐山は「古公亶父」(こうこうたんぽ)が800年続いた周王朝の基礎を築いた地とされています。
また、この地を拠点として殷(いん)を滅亡させ、周王朝の時代を導いたともされており、岐山は縁起の良い地名でした。
次に「岐陽」。
「岐陽」は岐山の南にある地で、若くして周王朝2代目の王となり、周を確立した「成王」(せいおう)が狩りを行った場所と伝えられています。
最後に「曲阜」です。
「曲阜」は中国の山東(さんとん)省・済寧(さいねい)市に位置する地域です。「孔子」(こうし)生誕の地とされています。孔子は紀元前の中国の思想家で、日本への影響も強い「儒教」を創出した人物です。儒教は日本国内でも古くから「学問」として受容されてきました。
「岐阜」と「岐阜陽」の意味・由来
「岐阜」の名称自体は日本国内で造られました。
中国で縁起の良い「岐山」(または「曲阜」)と孔子の生まれた「曲阜」から1文字ずつ取って、「岐阜」が完成したとされています。
古代中国・周時代800年のような「泰平」が訪れること、儒教のような「学問」が盛んになる地になることを願って「岐阜」としたと考えられているようです。
続いて、「岐阜陽」。
室町時代の詩文集『梅花無尽蔵』(ばいかむじんぞう)に「岐陽」「岐阜陽」という言葉が登場します。
しかし、この岐阜陽がどんな意味なのかについては不明です。
そこで、岐阜陽を分解して中国語の意味を見てみようと考えた方がいました。
岐・阜・陽はそれぞれ中国語で・・・
- 岐:枝分かれになった細い道
- 阜:小高い丘
- 陽:山の南側または川の北側
・・・を意味しており、一説によると、木曽三川の北側に位置する地域(現在の岐阜市付近か)を指すとされています。
しかし、この岐陽・岐阜陽が本当に岐阜の地を指しているかは定かではありません。
「岐阜陽」については、本当に岐阜の地を指しているのかという点で論争が起きているようですね・・・。
由来話:織田信長の「岐阜」命名
命名した人物にも諸説があります。
- 織田信長本人が命名した説
- 「政秀寺」を開いた僧「沢彦宗恩」(たくげんそうおん)が候補を挙げて、信長が選出・命名した説
- 信長が命名する前から「岐阜」と呼ばれていた説
諸説ありますが、2番目の説が有力です。
宗恩が信長の「参謀」として、「岐阜」の名を使用するように進言したとされています。
そして、「岐阜」と命名したのが信長です。
信長が命名する前から岐阜と命名されていたという説は、20世紀の始まり頃に「岐阜市案内」にて支持されていました。しかし、この説を裏付ける史料はないとされています。
由来話:岐阜城築城~廃城、「岐阜県」になるまで
時は戦国時代、岐阜はかつて稲葉山と呼ばれ、美濃国斎藤氏(斎藤道三が有名)の堅牢な居城・稲葉山城が存在しました。信長がこの稲葉山城を落とすと、稲葉山の立地の良さに目をつけ、本拠地をこの稲葉山に移します。
信長は稲葉山城の城郭を壊して、新たに城を築くと、1572年(天正3年)に城下の「井口」を「岐阜」と命名しました。
(命名の経緯や由来は「岐阜の由来:「岐山」など中国の地名から」「由来話:織田信長の「岐阜」命名」で紹介したとおりです。)
その後、信長は城下・岐阜に楽市・楽座を設け、自由な商売を促すと、岐阜は商業の町として栄えました。
信長の孫・秀信(ひでのぶ)の代では、関ヶ原の戦いで西軍に手を貸して、岐阜城に立てこもっています。そのため、元東軍総大将・徳川家康が天下を取ると、敵であった秀信の岐阜城の廃城が決定されました。
その後、家康は娘婿の奥平信昌(おくだいらのぶまさ)に10万石を与えて、加納城を作らせています。こうして岐阜城は歴史から姿を消したのです。
そして明治時代となり、この岐阜の地を管轄としていた「岐阜奉行」の後身として、1873年(明治6年)に「県庁」が設置されます。県庁は旧奉行所名の「岐阜」を継いで「岐阜県」と名乗り、今に至ります。
整理
- 岐阜の由来は、「岐山」「曲阜」など中国地名にあり
- 「岐阜」の命名者について、「政秀寺」を開いた僧「沢彦宗恩」が候補を挙げて、信長が選出・命名した説が有力
- 岐阜城、岐阜奉行から岐阜県庁、そして岐阜県へ