「大阪」の由来とは|1記事で丸ごと解説!怖い地名由来と水の都のワケ

地名

こんにちは。由来系ライターのSAITOです。

 

単刀直入ではありますが、大坂の由来は現在の大坂城周辺が「小坂」と呼ばれたことから始まります。

 

今回は「大」の字も「阪」の字も単純そうで歴史の長い「大坂」の由来を解説していきます。

SAITO
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おしながき

 

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大阪の由来:「大坂」「小坂」から

 

「大阪」の地名は「東成郡生玉之庄内大坂(ひがしなりこおり の いくたましょうない おおさか)」に由来します。この地名は現在の大坂城付近を指すものです。

 

 

この「東成郡生玉之庄内大坂」は、1498年(明応7年)の「蓮如(れんにょ)」の手紙に記されており、文献上で初めて「大坂」の地名が登場したとされます。

 

蓮如とは、現在の大坂城の場所に存在した「石山本願寺」を建てた浄土真宗の僧です。この石山本願寺の完成は1496年(明応5年)。「大坂」の地名はこの寺の完成を祝し・・・

 

「小坂(おざか・おさか)の呼び名を改称し、新しく「大坂」と呼ぼうではないか」

 

・・・という具合に改称されたものとされています(『精選版 日本国語大辞典』)。

 

SAITO
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この説が正しければ、「大坂」の地名は1496年の石山本願寺完成のタイミングで誕生したと言えるでしょう。

 

それ以前は「小坂(おざか・おさか)」と呼ばれていました。

 

この小坂の由来は、この地が現在の大阪府を南側から中央にかけて貫く「上町台地」に沿った坂であったため「小坂」になったとされています。

 

小坂の地名自体は、1296年(永仁4年)以前に成立した歌謡集『宴曲抄』(えんきょくしょう)の「九品津小坂郡戸の王子」(くぼつおざかこおず の おうじ)に登場しています。ゆえに、13世紀末頃にはすでに小坂の地名が存在していたわけです。

 

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「ちょ・・・時系列めちゃくちゃ」となるので、ここまでの情報を一度整理しておきましょうか。

 

ここまでの内容を時系列順に整理します。

 

  • 上町台地に沿った坂であったため「小坂」
  • 1296年(永仁4年)以前成立の『宴曲抄』に「小坂」の地名が登場
  • 1496年(明応5年)に蓮如が石山本願寺を建立/このタイミングで「小坂」から「大坂」へと改称
  • 1498年(明応7年)の蓮如の手紙に「大坂」が登場

 

このような流れとなります。
現在の大阪の由来が「大坂」や「小坂」にあることがわかりました。

 

その後の大坂(小坂)の発展

 

蓮如は小坂の地に1496年(明応5年)に石山本願寺を建立しました。この時期の小坂(大坂)は、ちょうど交易によって経済活動が盛んになった時期でした。

 

そのため、石山本願寺周辺の寺内町(じないちょう/浄土真宗の寺院などを中心とした自治集落)も、本願寺建立から30年程度で規模が大きくなります。

 

しかし、戦国時代になると、この大坂の地は織田信長に狙われるようになりました。信長が大坂の地を狙った理由は次の4つとされています。

 

  • 大坂が高台だったため
  • 大坂が舟運(しゅううん)の要所だったため
  • 大坂が淀川の河口であり、京にいる朝廷をけん制できるため
  • 商業都市「堺」の通過点だったため

 

当時の大坂は、現在の大阪府を南側から中央にかけて貫く「上町台地」の北の先端部分で高台でした。

 

 

このように、地理的な関係から、天下統一を目指す信長にとって、この地を押さえる必要があったのです

 

信長は石山本願寺に大坂の地を明け渡すように要求します。しかし、石山本願寺がこれに反対して勃発したのが「石山合戦」(1570~1580年)です。

 

結果、石山本願寺は戦に敗北し、大坂を明け渡すことになります。その後、石山本願寺は出火・倒壊しました。

 

1583年(天正11年)には、豊臣秀吉が石山本願寺跡地に築城を計画し、15年を費やして「大坂城」が完成します。

 

こうして秀吉のもと、大阪は繁栄の一途をたどり、「大坂」が指す地域はより広範囲になっていきます。

 

大坂(大阪)の江戸~明治時代

 

江戸時代に入ると大坂の行政組織である南組・北組・天満組「大坂三郷(おおさかさんごう)」が結成されました。「大坂町」は大阪三郷が支配する地域を指したとされます。

 

1868年(明治元年)には、「大阪府」が設置されました。大阪「府」となった理由は、大坂が幕府の直轄地であったことに由来し、要地という意味を込めて「府」となりました。

 

京都・東京も同じ理由で府となっています。

 

その後、1881年(明治14年)に堺県を編入し、1887年(明治20年)に現在の奈良県が分離して、今の大阪府の形が完成しました。

 

「水の都」の由来は17本の運河

 

「水の都」は、江戸時代以降、この地に網の目状に運河が広がっていたことに由来します。

 

当初は「運河」として造られたものではありませんでした。以前はこの一帯が湿地だったために、排水とかさ上げ用の土砂の確保のために掘られた「溝」を後から運河として利用したのです。

 

しかし、この運河のおかげで川沿いには蔵屋敷・倉庫が立ち並び、大坂の発展に貢献したとされています。明治を過ぎても水路は掘り続けられ、第2次世界大戦前までは17本もの運河がありました。

 

「現存」

  • 東横堀川
  • 道頓堀川

 

現存するのはたったの2本だけです。
他の水路は、第2次世界大戦後のガレキ処理のために、埋め立てられてしまいました。

 

「大戦後の戦後処理で埋立済み」

  • 天満堀川
  • 長堀川
  • 高津入堀川
  • 難波新川
  • 西横堀川
  • 江戸堀川
  • 京町堀川
  • 海部堀川
  • 阿波(座)堀川
  • 立売堀川
  • 薩摩堀川
  • 堀江川
  • いたち川(立売堀)
  • 十三間川
  • 曽根崎川

 

主に堂島川・東横堀川・道頓堀川・木津川を四角形で囲んだ地域(中央区西側+西区東側)に水路が密集していました。

この地が「水の都」発祥の地とされます。

 

「大坂」から「大阪」になった理由は縁起が悪いから

 

つちへんの「大坂」と現在の「大阪」の地名が混用されるようになったのは江戸時代からです。

 

しかし、「大坂城」「大坂三郷」「大坂の陣」などの名称からわかるように、まだつちへんの「大坂」の方が主流でした。現在のこざとへんの「大阪」の方をつかうことは稀だったとされます。

 

こざとへんの「大阪」が誕生した理由は、「坂」の字を分解すると「土」+「返」で「土に返る(死の意)」で忌み嫌い、こざとへんの「阪」の字を用いるようになったためとされています(1808年『摂陽落穂集』)。

 

SAITO
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「坂」と「阪」は同意語であり、同じ意味を持つ漢字です。同じ意味なら、少しでも縁起が良い方を使いたくなったのでしょう。

 

1868年(明治元年)に大阪府が設置されてからも、「大坂」と「大阪」はしばらく混用されていました。しかし、明治10年代には「大阪」の方が定着していったとされます。

 

大阪の怖い地名と難読地名の由来

 

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有名なのは梅田でしょう。

 

梅田(うめた/大阪・北)の地名は、この地が湿地帯だったことから、地盤が安定しておらず、田んぼが埋まってしまうため「梅田」となった説が有力です。(埋立地で「梅田」の説もあり)

 

他にも、梅田には大阪七墓に数えられる「梅田墓地」と呼ばれる墓地が存在し、この地は「墓場」として利用されてきました。墓石や遺骨が埋められた地ということで、「梅田」となった説があります。

 

また、枚方市には面取(めんとり)町と呼ばれる地域があります。この地域には、「面取」すなわち「頭部を取る」ということで、処刑場があったため、この地名が生まれたとされています。

 

SAITO
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怖い地名が中々見つからなかったので、代わりに難読地名をご紹介します。

 

  • 高麗橋(こうらいばし/大阪・中央):高麗(こうらい/朝鮮半島)から来た渡来人が多く住んでいたため
  • 立売堀(いたちぼり/大阪・西):この地に伊達政宗が布陣したことため伊達堀(だてぼり)としたが、「いたちぼり」と誤読し、材木の立売り問屋が集まって「立売堀」となった
  • 喜連(きれ/大阪・平野):中国・呉(くれ)から
  • 十三(じゅうぞう/大阪・淀川):淀川の船着場(または区画とも)の13番目の要所
  • 恩智(おんぢ/大阪・八尾):百済(くだら/くだら)から渡来した阿知使主(あちのおみ)の「阿知」が転じた
  • 放出(はなてん/大阪・城東&鶴見):淀川に放出されていたポイント「はなちで」が転じた
  • 天下茶屋(てんがちゃや/大阪・西成):天下人・秀吉が立ち寄った(または御用達の)茶屋から
  • 水走(みずはい/大阪・東大阪):この地を流れたいた勢いある川の流れ方から
  • 杭全(くまた/大阪・東住吉):古代の治水工事で打った杭を打ち尽くした地点から
  • 百舌鳥(もず/大阪・堺):スズメの仲間のモズの漢字表記から

 

SAITO
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今回は簡単に紹介しましたが、由来には諸説あります。必ずしも正しいわけではありませんのでご注意ください。

 

名字の大阪の由来

 

SAITO
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2019年に全豪オープン初優勝で世界ランキング1位となった女子プロテニス・大坂なおみ選手が有名となりましたね。名字の大坂はどこから来たのでしょうか。

 

大坂なおみ選手の両親は、父親がハイチ系アメリカ人で、母親が北海道根室市出身の日本人です。「大坂」の名字は母方の名字となっています。

 

大坂の名字は日本各地に存在した「大坂屋」に由来するものという説があります。大坂屋は日本海側に多いとされ、江戸時代に活躍した「北前船(きたまえぶね)」と関係があるといわれています。

 

北前船は瀬戸内海・日本海側沿岸を進み、大坂・北海道(松前)間を往復していた江戸時代の貨物船でした。

 

日本海側の港に寄りながら航海していたため、日本海側を中心として各地に大坂からきた商品を扱う「大坂屋」が誕生します。

 

「大坂」の祖先は、大坂屋の屋号から「大坂」の名字を名乗ったとされます。

 

SAITO
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母方が北海道の出身ということで、大坂なおみ選手は松前付近で大坂屋として商いをしていた商人の子孫かもしれませんね。

 

まとめ:小坂→大坂→大阪

 

今回紹介したことを整理していきましょう。
大阪の地名は、大坂城周辺で生まれました。

 

  • 上町台地に沿った坂であったため「小坂」
  • 1496年(明応5年)に蓮如が石山本願寺を建立/このタイミングで「小坂」から「大坂」へと改称説
  • 1583年(天正11年)には、豊臣秀吉がこの地に築城を計画し、15年を費やして「大坂城」が完成
  • 江戸時代頃より、大坂の地には運河が広がっていたため、「水の都」と呼ばれる
  • こざとへんの「大阪」が誕生した理由は「坂」の字を分解すると「土」+「返」で「土に返る(死の意)」で忌み嫌い、こざとへんの「阪」の字を用いるようになったため
  • 1868年(明治元年)には、大坂が幕府の直轄地であったため、要地という意味を込めて大阪「府」を設置
  • 1887年(明治20年)に現在の奈良県が分離して、今の大阪府の形が完成

 

要約すると、こんな感じになります。

 

  • 「小坂」→「大坂」→「大阪」

 

小さな坂から、大きな阪となりました。

 

SAITO
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大坂は難読地名が多いので由来の調べ甲斐がありますな。今後もドンドン更新していくのでどうぞよしなに。

 

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