こんにちは。由来系ライターのSAITOです。
今回のテーマは、2019年に100周年を迎えた「カルピス」の由来と誕生の歴史です。
カルピスの由来:カルシウム+サルピス
カルピスは代表的な栄養素「カルシウム」とサンスクリット語の「サルピス」から作った造語に由来します。
「サルピス」は「熟酥(じゅくそ)」とも呼ばれる仏教由来の単語で、乳からチーズのような発酵食品を作る過程を表わす5段階のうち1つとされます。
その5段階をサンスクリット語とセットで表わすと、
- 1段階目:乳=ダディ、ドゥグダ
- 2段階目:酪=クシーラ
- 3段階目:生酥(しょうそ)=ナヴァ・ニータ
- 4段階目:熟酥=サルピス
- 5段階目:醍醐(だいご)=サルピルマンダラ←最もおいしい状態
・・・となり、5段階目の「醍醐」が最もおいしい状態と考えられてきました。
これにならい、開発当初は「カルシウム」と最もおいしい5段階目「醍醐」を表わす「サルピルマンダラ」から「ピル」を取って「カルピル」とする予定でした。
しかし、「カルピル」だと語呂が悪いため、1段階下の4段階目の「サルピス(熟酥)」から「ピス」を取って、「カルピス」となりました。
由来は「体にピース」ではないんだね。残念。
その後、時期は分かりませんが、カルシウムは添加されなくなりました。
カルピス誕生秘話
「カルピス」を作ったのは、三島海雲という方です。彼の生い立ちから、カルピスの誕生まで追っていきましょう。
カルピスの父・三島海雲
三島海雲(1878~1974)は英語教師でした。三島は1902年(明治35年)に24歳で中国に渡ると、教師として現在の河北省付近に赴任するなどして経験を積んでいました。
しかし、1903年(明治36年)には教師から雑貨売りに転職し、北京で雑貨貿易商社「日華洋行」を立ち上げました。
始めは日本から取り寄せた雑貨品などを馬車で売り歩きましたが、1904年(明治37年)に日露戦争が始まり、軍事用の馬の調達を依頼されると、三島の事業は軌道に乗りました。
この馬の調達事業で、三島はモンゴルと接点を持ちます。
三島と「酸乳」の出会い
日露戦争が終わると、日本の政府からモンゴルの羊を改良して軍服を作ろうという計画が持ち上がりました。
三島は大隈重信からの推薦を受け、モンゴルの人々と協同で羊の改良に取りかかります。こうして、三島はモンゴルの情勢に詳しくなっていきました。
1908年(明治41年)には歴史学者である桑原階蔵(じつぞう)博士を案内しながら、モンゴルを巡る旅に出ます。そこで三島は遊牧民族が飲んでいた「酸乳」に出会いました。
この酸乳について、三島は「乳酸菌の発酵でできた酸味のある乳で、羊の皮で覆われた大きな容器(かめ)の中に入っており、モンゴルの人々は静かにかき混ぜて毎日飲んでいた」というような記述を残しています。
長旅で疲れていた三島は、この酸乳を毎日摂取することで、体の調子を取り戻したといわれます。
三島は、このモンゴルの酸乳が健康に良いと確信し、1909年(明治42年)に単身でモンゴルを訪れ、酸乳の作り方を学びます。
1912年(大正元年)の当時の清(中国)で辛亥革命が起きると、モンゴルで行っていた羊の改良事業が立ち行かなくなり、事業を手放して1915年(大正4年)に帰国しました。
ヨーグルトを超える存在を目指して
当時の日本では、すでに「ヨーグルト」が発売されていました。帰国した三島はヨーグルトを食べますが、あまりおいしくないと感じ、自ら乳酸菌を活用した食品を作り出そうと決意しました。
こうして1915年(大正4年)、三島は「酸乳」の製法の知識を生かして、ヨーグルトよりも高級な発酵クリームの開発に着手します。
この「高級な発酵クリーム」のモデルは、モンゴルの「ジョウヒ」と呼ばれるクリーム状の酸っぱい食品で、2,3日貯蔵して乳酸発酵させたものとされています。
このジョウヒは酸味を和らげるために、モンゴルでも貴重だった「砂糖」を入れたとされ、三島はモンゴルの裕福な家庭でしか見られなかったとして、この高級なジョウヒをモデルに新製品を開発しようとしました。
なんとか「醍醐味」を完成させる、が
1916年(大正5年)に「醍醐味(だいごみ)合資会社」を設立、ジョウヒを「醍醐味」と名付け、ジョウヒの製造過程で余った脱脂乳も「醍醐素」として発売します。
この「醍醐」とは、冒頭で紹介したとおり、牛乳から作った食料品で最もおいしい状態のこと。つまり「醍醐味」は「最もおいしい味」、「醍醐素」は「最もおいしい素」を意味します。
結局、醍醐味と醍醐素は温度管理などの問題で失敗しましたが、この失敗の経験を生かして、「ラクトーキャラメル」の製造を始めます。
キャラメルの開発に着手
三島は東京大学の協力を得て、生きた乳酸菌が入った酸乳入りのキャラメルを開発しました。これを製品化したのが「ラクトーキャラメル」です。
こうして1917年(大正6年)に「ラクトー株式会社」を新しく設立し、翌年1918年(大正7年)にラクトーキャラメルの販売を開始します。
販売は順調でしたが、夏場にキャラメルが溶けしまうなどのトラブルに見舞われ、トラブルに対処できないまま、たった1年で販売を中止してしまいました。
偶然にも「カルピス」誕生
1919年(大正8年)、この年、偶然にもカルピスが誕生しました。
三島が持っていた工場では、新しい乳酸菌飲料を開発するために工員が一丸となって研究に当たっていました。
当時、工場の責任者であった片岡吉蔵はふとあるアイディアを思いつき、「醍醐素」に砂糖を混ぜて放置しておきます。その後、1,2日してから飲んでみると、非常においしい飲み物になりました。
三島は「空気中の酵母が偶然にも混入し、程よく自然発酵した」と推測しており、乳酸菌で発酵させた後に、酵母で発酵させるというヒントを得ました。
現在、カルピス社ではこれを「二次発酵」と呼んでいますが、カルピスのあの味を出すためには必要な工程とされています。
三島はこの研究で完成した飲料を「カルピス」と名付けました。
カルピスは高かった
発売当初のカルピスの値段は、400mLのビンで1円60銭、180mLのビンで80銭と、当時なら白米5キロ程度に相当。庶民の金銭感覚的には高価なものでした。
庶民に気軽にカルピスを購入してもらうためには、「原液を薄めて飲むコスパの良い飲み物」という点をアピールしなくてはいけません。ゆえに、広告宣伝には力を入れました。
1920年(大正9年)に広告に掲載された「初恋の味」というフレーズが有名になったんだって。
後にこの初恋の味は映像化され、カルピスの入った1個のグラスに2本のストローが添えられている映像が話題となり、その影響力は「初恋」を表わす手話が誕生するほどといわれています。
現在の「水玉模様」が誕生したのも大正9年です。カルピスの発売日が7月7日(七夕)であったため、天の川の星空をイメージした”青地に白い水玉”のデザインを採用しました。
このデザインは、後に”白地に青い水玉”となっています。
『フランダースの犬』で庶民の飲み物へ
1960年頃まではカルピスは、贈り物に選ばれるなど「高価で贅沢な飲み物」とされていました。
このイメージを変えたのがカルピスがスポンサーとなった『カルピスまんが劇場』『カルピスこども劇場』『カルピスファミリー劇場』といったテレビアニメの放送枠です。
このカルピス劇場で現在も有名な『ムーミン』『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』『あらいぐまラスカル』などといった名作アニメが放映されました。
カルピスはこのようなテレビ番組を通して、お茶の間に浸透していき、家庭的な飲み物として親しまれるようになっていきました。
割った状態で売るとヒットした
カルピスは販売開始から長期間、「原液」の状態で販売されていました。しかし、1973年(昭和48年)にカルピスを炭酸で割ったカルピスソーダが誕生し、人気を呼びました。
その後、原液のまま販売せずに、製造段階で水割りしたカルピスを販売しようとします。しかし、カルピスの水割りには、「特殊な殺菌技術」や「水割りで粒子が沈殿しない技術」が必要でした。
こうした苦心の末、1991年(平成3年)に誕生したのが「カルピスウォーター」です。
このカルピスウォーターは、80年代後半からシンプルな飲み物に関心を持つ人々の心をつかみ、自社工場をフル稼働させても生産が追いつかないほど大ヒットします。
翌年の1991年(平成3年)も売上は好調でした。その後、徐々にカルピスブランドを世に浸透させ、日本で「乳性飲料」というジャンルを開拓しました。
海外では「カルピコ」と呼ばれる
ダルビッシュ有選手のinstagramで有名になりましたが、実は海外ではカルピスではなく、「カルピコ」として知られています。
その理由はカルピスが英語圏の人々には「cow piss(牛の尿)」に聞こえてしまうためです。飲み物の名前としては致命的な物ですので、名前を変えて販売しているとされています。