今回のテーマは、世界最高級のスポーツ用品メーカーとして有名な「ナイキ」です。
ナイキの由来
ナイキという社名・ブランド名は、ギリシャ神話の勝利を擬人化した女神「ニケ(Nike)」に由来します。
また、独特な曲線を描いたロゴは「スウッシュ(swoosh)」と呼ばれています。
このスウッシュは、ニケの彫刻にある「翼」をモチーフにしており、スポーツメーカーにふさわしい躍動感・スピード感を表現しています。
ナイキの歴史
ナイキのルーツ、そして歴史を見ていきましょう。
フィル・ナイトと日本製シューズ
創業者のフィル・ナイトは元々、中距離ランナーでした。1962年、彼はスタンフォード大学ビジネススクールでMBA(経営学修士)を取得します。
その際の修士論文は「日本の低コストな労働力によるシューズ生産でアディダス(ドイツ)に対抗できる」というような内容とされています。
この論文を執筆した際に、日本からシューズを輸入し、販売するアイディアをひらめきます。
こうしてフィル・ナイトは、大学時代の陸上競技部のコーチであったビル・バウアマンに日本製のシューズを査定してもらいます。
ビル・バウアマンは、そのシューズを高く評価するとフィル・ナイトの計画に賛同しました。
ビル・バウアマンはその後もナイキブランドのシューズの実験と改良を担うなど、ナイキに貢献してきた人物です。
日本の「オニツカ」との提携
フィル・ナイトは世界旅行に旅立ち、途中で立ち寄った日本のシューズメーカー「オニツカタイガー(現・アシックス)」と交渉し、たったの50ドルで輸入販売権を購入します。
こうして1964年、フィル・ナイトはビル・バウアマンとともに、ナイキの前身「BRS(ブルー・リボン・スポーツ)」を設立しました。
BRSは日本のオニツカタイガーの輸入代理店として、翌年の1965年には売上を2倍(2万ドル)に伸ばし、その翌年には1号店がカリフォルニア州サンタモニカにオープンするなど事業は好調でした。
しかし、オニツカタイガーとBRSの間に何らかの不和が生じて、1971年にBRSとの提携を打ち切ってしまいます。
契約を打ち切った原因ははっきりしてないんだ。
打ち切りの原因には、様々な説があります。
- BRSが他のメーカーに誘われ、オニツカとの契約を打ち切ったという説
- オニツカがアメリカで直販店の展開を狙っていた説(代理店のBRSの存在が邪魔だった説)
- オニツカの発注ミスが重なり、あきれたBRSが提携を終了した説
よく見かけるのはこのあたりの説ですね。
もしくはこれらの説が複数混合したもっと複雑な原因があったのかもしれないね。
「ナイキ」誕生
BRSはオニツカとの提携を解除しても、日本の「日商岩井(現・双日)」の支援で再建、1971年に誕生した独自ブランドを「ナイキ」と命名して、社名もナイキで統一します。
このタイミングで「スウッシュマーク」をロゴとしました。
ナイキはオニツカタイガーの技術者を引き抜き、1977年にオニツカタイガーのライバル「アサヒシューズ」と提携、協同でシューズを生産、ナイキブランドで販売しました。
元の提携先から人材を引き抜いてライバルとして相手取るなんて、めっちゃドライな感じがするね。これがアメリカ式なんだろうか。
このアサヒシューズは元々「日本足袋」と呼ばれる会社で、実は「ブルヂストン」の源流でもあります。詳しくはこちらの記事をご覧くださいませ。
「ワッフルメーカー」でヒット?
1970年代当時、陸上選手の「スパイクシューズ」は金属製が主流でした。しかし、土でなく人工の競技用トラックは、金属製のスパイクシューズで簡単に傷がついてしまいます。
そこで金属を使用せずとも、地面をしっかりつかんでくれるスパイクシューズの開発が重要となりました。
ある日、新しいシューズの開発を担当していたビル・バウアマンは、朝食にワッフルを食べていました。
そしてふと「ワッフルメーカーのデコボコを地面に例えて、シューズの開発に活用できないか」と思いつきます。
「でこぼこの型に流し込む」というアイディアで、靴裏の複雑な曲線を作り、地面をつかめるシューズを作ったということですね。
こうして1974年に完成したのが「ナイキワッフルトレーナー」です。これがアスリートの間で「軽量」と評判となり、大ヒットを記録、ライバル企業を追い抜きました。
ナイキの世界的な躍進
1980年代に入ると、ナイキは急成長を果たし、人気ブランドとなります。広告制作は、アメリカでは有名な広告代理店「ワイデン+ケネディ社」を起用しました。
こうした企業努力でナイキはアメリカ屈指の競技用シューズメーカーとなりました。さらにブランド代表としてマイケル・ジョーダンの協力を得て、知名度を高めていきます。
その後1981年に、ナイキジャパンが日商岩井との合弁会社「Nike International」を設立、世界40ヶ国以上で販売を開始します。1986年には総収入が10億ドルを超えました。