こんにちは。由来系ライターのSAITOです。
今回のテーマはスナック菓子最大手「カルビー」の社名の由来です。
カルビーの由来:カルシウムとビタミンB1
カルビーは栄養素「カルシウム」と「ビタミンB1」から作った造語です。いずれも代表的な栄養素とされ、1955年(昭和30年)に健康を支える食品を目指してこの社名が付けられたとされています。
カルビーの「苦難」の歴史
カルビー公式サイトには会社の詳しい歴史(ルーツ)が記載されていませんでした。
気になったので調査してみます。
ルーツは「松尾巡角堂」
カルビーのルーツは、創業者・松尾孝の親族が営む「松尾巡角堂」といわれています。元は広島で「柿羊羹」などを販売していたとされ、1905年(明治38年)頃には営業していました。
松尾は1912年(明治45年)に広島市楠木町で生まれ、1927年(昭和2年)に15歳で家業である「穀粉製造販売」を手伝っていました。
穀粉は穀物をひいて粉にしたもので、お菓子など加工食品の原料になります。
「松尾巡角堂」と家業の「穀粉製造販売」の関連は不明ですが、孝の親族が菓子やその原料の製造・販売を営んでいたことは確かです。
かっぱえびせんのルーツは「広島」なんだね。
広島にルーツを持つ有名なメーカーに4℃があります。こちらの社名の由来も合わせてどうぞ。
「一人・一研究」を掲げる
1931年(昭和6年)に松尾は中学校を卒業します。
この頃、彼は広島県連合青年会(商工会議所)の講習会で「一人・一研究」という言葉に出会い、「(一人一人が)後世に残る仕事を一つ成し遂げよ」という考え方に感銘を受けます。
この頃の日本は「ビタミン欠乏症」「脚気(かっけ)」を患う人が多く、松尾の「一人・一研究」のテーマはビタミンを多く含む米の胚芽(はいが)を利用した健康食品の開発となりました。
この時の「健康食品を作りたい」という強い思いが「カルビー」の名前をつけるきっかけとなったんだね。
脚気はビタミンB1が不足することで発生する疾患とされます。
「カルビー」の社名を「健康を支える食品を目指してカルシウムとビタミンB1から作った造語」としたのは、この脚気から国民を救いたいという気持ちがあったのかもしれませんね。
父の家業を継いだが、苦難の連続
その後、亡くなった父の家業を継ぎ、1937年(昭和12年)に「松尾糧食工業所」を設立します。自宅兼工場は現在の広島市西区楠木町1丁目付近にありました。
しかし、事業は多額の借金を抱えており、経営難でした。
そのような危機でも、賀茂鶴酒造(現・東広島市)から引き取った「米ぬか」を飼料として農家に売り、砕けた米の一片すら残さず「米のり」にして伝統工芸・京友禅の業者に売る商売をしていました。
「なんとか食いつないでいる」という感じが伝わってきますね。
1939年(昭和14年)、日本が第二次世界大戦に突入すると、今度は米ぬかの胚芽を粉末状にして「残業食」として軍需工場に納めるようになります。
また、戦時中は主食の米が不足したため、「代用食」として「さつまいもでんぷんカス」に、砕けた米などを混ぜ合わせた食品も好評だったとされています。小学校にも団子を納めていました。
「あるものはなんでも使う」精神で乗り切ったんだね。こういう考え方がなければ、戦争の時代に会社を経営するのは難しかったのだと思う。
戦後「カルビー製菓」になるまで
終戦直後は広島市南区にある陸軍の工場跡地に松尾糧食工業所の事業所を移しました。移転当初は、とにかく多方面から小麦・イモを集めて、イモ菓子やパン、団子、飴などの食品を作っていたとされます。
その後、キャラメル(後のカルビーキャラメル)の販売が軌道に乗ると、終戦から5年後の1949年(昭和24年)に、株式会社「松尾糧食工業」に改変します。
しかし、1953年(昭和28年)に資金繰りに失敗し、倒産の危機が訪れます。この時の負債を「一生かけて返済する」と宣言し、1955年(昭和30年)に社名を株式会社「カルビー製菓」に変更しました。
この際の「悪戦苦闘」で誕生したのが後の「かっぱえびせん」とされます。
その後、経営は次第に松尾の子供たちに引き継がれ、数々のヒット商品を世に繰り出したカルビー製菓は1973年(昭和48年)に現在の「カルビー株式会社」に改名し、「スナック菓子の業界最大手」と呼ばれるまでに成長しました。