こんにちは。由来系ライターのSAITOです。
今回のテーマは七五三のお祝いの際に買う「千歳飴(ちとせあめ)」の由来です。
千歳飴の由来:長寿の願いを込めて
「千歳飴」は江戸時代頃に「せんざい飴」「千年飴」「寿命飴」などと呼ばれていました。その名の通り、「千歳」つまり「1000年」に由来し、健康・長寿を願った飴とされています。
「千歳」の理由
子供にこの千歳飴がふるまわれた背景には、江戸時代の子供の死亡率の高さがあります。
当時は子供の大半が数年に一度の「天然痘」の流行で死亡していたとされ、麻疹・風疹も子供に猛威をふるった時代でした。
そのような時代背景があったために、「千歳飴のように細く長く生きて欲しい」という健康・長寿の願いを込めた千歳飴がふるまわれたとされています。
千歳飴の包装にも「めでたい」装飾
現在はカラフルな千歳飴ですが、元々はデンプンを麦芽のアミラーゼで糖化して作った「麦芽飴」を縁起の良い紅白の色に染めたものを指していました。
かつては紅白2本の千歳飴を「鶴・亀」や「松・竹・梅」のめでたい模様が描かれた細長い袋に入れて売られていました。宮参りの際に買った後、親戚・縁者にも配るのが慣習とされています。
神社によってはお供え物の「供饌菓子(ぐせんがし・ぐせんかし)」とされ、お守りの代わりとして配るケースもあります。
千歳飴の歴史
千歳飴は江戸時代には江戸市中で売られており、七五三の祝いが華やかさを極めた時代に、神社の門前・境内で売られた紅白で甘い千歳飴も一つの流行となったとされています。
しかし、そのルーツには謎が多く、以下の2つの説があります。
- 大坂の飴屋・平野甚九郎が江戸で売り始めた説
- 江戸の飴売り・七兵衛が売り始めた説
それぞれの説を見ていきましょう。
大坂の飴屋・平野甚九郎が江戸で売り始めた説
1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で敗れた豊臣秀吉の家臣・平野甚左衛門の息子・甚九郎(”陣”九郎とする説も)重政が摂津国平野(大阪市平野区)で飴屋を開きました。
父・平野甚左衛門についても詳細は不明で、豊臣軍と戦い、敗れて浪人になったという説もあります。
甚九郎の飴屋は麦芽飴を「平野飴」として製造・販売していましたが、その後、江戸に出て浅草寺で「千歳飴」として売り始めたとされます。
このように上方(京周辺)から江戸に伝わった飴は「下り飴」と呼ばれるようになったともいわれています。
この「平野飴」自体は現在も販売されており、約400年の歴史があります。「平野周辺で作られた飴」で「(摂州)平野飴」と呼ばれたのが始まりとされています。
江戸の飴売り・七兵衛が売り始めた説
江戸時代中期、1688~1711年(元祿・宝永)頃に、江戸・浅草の飴売り七兵衛なる人物が「千年飴(せんねんあめ)」として売り始めたとされます。
辞書の場合は、この「飴売り七兵衛」を紹介するケースが多いですね。
2つの説があったけど、「飴屋」と「飴売り」って何が違うの?
実はその違いにもトリビアがあります。
不思議な飴売り(飴屋)の雑学
「飴屋」は飴を売るビジネスそのものを指し、「飴売り」は飴屋の形の一つです。
「飴売り」はあちこちで飴を売り歩いた飴屋であり、飴屋の行商人とされます。
この飴売りの起源は長い日本史の中でも意外と最近であり、ちょうど浅草で「飴売り七兵衛」が千歳飴を売り歩いた1688~1711年(元祿・宝永)頃から始まったとされます。
しかし、この飴売り。ただ飴を売り歩いただけではなく、不思議な洋装で売り歩いていたと伝えられています。
江戸時代中期の旗本・根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の随筆『耳嚢(みみぶくろ)』には、1770年代に、
- 浅黄色(薄い黄色)の頭巾
- 袖無羽織(そでなしばおり/旅館などにある袖がない羽織)
- 日傘に赤い絹を垂らす
- 鉦(しょう/チャンチキ、金属製の打楽器)を鳴らして歌い歩く
・・・という奇怪な飴売りの姿を確認したと記録されています。
そして、1818~1830年(文政)頃には、
- 唐(中国)人の装束
- 唐人笛(ラッパのような楽器、チャルメラ)を吹く
- 「長崎名物」と称する飴を売り歩いた
- 歌って踊った
・・・という謎の飴売りの存在も確認されており、明治頃まで存在したとされています。
他にも江戸時代頃には、奇抜な格好をした様々な飴売りがいたといわれます。
飴の購買層である子供たちの興味・関心を引く、一種の「パフォーマンス」として民衆に親しまれていたと考えられますね。